深沢工務店といわれた初代のころ、甲府二二四九番が電話番号だった。
「フーフ ヨクヨクと言うんだから、子沢山だよ」と当主の孝行(たかゆき)さんは、温厚そのもののぽってりとした体躯に、笑顔を見せて言った。
 明治三十年の一月一日に、南巨摩郡早川在に生まれたというから、目出度い福相は生まれつきかも知れない。戦時中は警防団や同業者の役員もされていたが、戦後は「若い者の出場所を塞いじゃあいかん・・・」と早々にお役ご免を願い出た。いや本音は、仕事を終えた夕飼の一杯を、毎晩みね夫人と共にしたかったのかも知れない。
 長男だったが才器に富んでいたから、東京に出て大工修行を重ね、大正十二年に甲府に戻ると湯村温泉湯治場に落ち着いた。終生のお得意さんとなる湯伝さんとの出会いも、この時である。
 西山梨郡千塚村塩部(現甲府市塩部一丁目の本社所在地)に世帯を張ったのが昭和初年で、以来おもに朝日町から湯村・千塚界隈の建築工事で、盆暮も休めないほど忙しかった。年と共に貫禄がついて、布袋さんと呼ばれる温和さが身についた。地域の中に裸で飛び込んで、衒(てら)うことがなかったからだろう。
 昭和二十五年に建築技術重視の世情から、建築士免許制度が施行されると、五十路を越えた初代は、メートル法やカタカナ言葉を猛勉強して、敢然と東京で行われた登録試験に挑戦した。そして見事制度第一陣の昭和二十六年の六月に、一級建築士〇三八九六号に登録され、県内同業者の先駆として賞賛された。
 多くを語らずもくもくと家業に精励される初代は、四男三女に恵まれ民生委員としても奉仕された。殊に甲府空襲の折には警防団員として活躍され、戦火の翌日からは手持の資材をなげうって、手弁当でバラック造りに奉仕した。今も地域の古老が、「深沢棟梁は、それまでこつこつ貯めたものを全部放出しましたが、今もその恩を忘れませんよ」と語ってくれた。雪の中にうたた寝た布袋さんを、雪はその身を濡らさなかったという言ひ伝えは、初代にぴったりの諭しであろうか。
 二代目好文(よしふみ)さんは昭和五年十月、待望の跡継ぎとして女児二人に次いで生まれた。この年の春には、鉄筋コンクリート三階建の山梨県庁舎(現・旧館)が誕生した。蝶よ花よとはゆかないまでも、建築が生業の初代夫妻は大きな期待に胸をふくらませた。ところが少年の頃から二代目は、口数も少なく外出も好まなかった。折しも深沢工務店の業績は、千塚小学校などの大物工事を含めて目の回るほどの忙しさで、日進月歩の時だったのである。  でもやはり、初代が献身的に奉仕する戦災復興の姿を観て、将来の道を感得した。甲府工業学校土木科で学んだのも、将来の都市は災害防止などを勘案して、不燃性であるべきと夢見たようである。
 代を継いで昭和三十年代に入ると、折からのコーポラスやマンション建築のブームに乗って、民間建築工事を主力に忙しく活動した。しかし初代がユーモアを利かせた達弁の人だったのに反して、二代目の口重は終日二言か三言で終わることが多かった。
「家へ帰ってもそうでしたが、その分盃を口にする数は多かったです。山登りが好きだったのも、あまり口を利かずに済むからでしょうか」とひで子夫人が笑顔を見せる。  そう言えば、写真も好きだったという二代目のアルバムは、十冊近くも残っていたが山の写真ばかりだった。 「酒と山が、あの人の生き甲斐だったようです・・・」と美人の奥様ははにかむ。それにしても布袋さんそっくりの初代が六十二歳で、山のおっさんと呼ばれた二代目が五十八歳で没したのは、いかにも早すぎた。
 三代目孝治(こうじ)さんは日大建築科卒業の嫡流(ちゃくりゅう)である。因みに彼が昭和六十年に登録された一級建築士の番号は、一九〇六七〇号である。と言うことは、制度第一陣の祖父孝行さんの〇三八九号との間には十八万六千七百七十四名の方々が、一級建築士の免許を取得されているのである。親子三代に亘る深沢工務店の重みがずっしり伝わってくるようだ。
 二代目の体調から、終学して直ちに社業に従事した三代目は、大規模な組織の中での体験のなさを憂えていたが、心配めさるな初代似の堂々たる体躯には、市井の建設業者としての夢がいっぱい詰まっているとお見受けした。一本の”のみ”に命を託した、名工を物語る露件の名作『五重塔』のような為様(しざま)も、多くの建設産業人の中でひとつの生き方ではないか。
 当社の経歴を観て公共工事の多さに一驚したが、三代に亘る市井の建設工務店に讃詞を送りながら、これからの山梨の巧の在り方に、新しい画風を加味した飛躍を大いに期待したい。